| 年代 |
歴 史 |
紀元前
127年 |
初代国王ニャティ・ツェンポ Nyatri Tsenpo(古代王国時代BC127〜AD842) |
| 630年 |
第三十三代ソンツェン・ガムポ(Songtsen Gampo)即位(在位630〜649年頃)
チベット文字制定、仏典将来、チベット仏教の基礎を確立。政治・軍事の覇権と領土拡張の時代の幕開け |
| 641年 |
ネパール王女、唐の王女文成公主を迎える |
| 676年 |
第三十四代国王マンソン・マンツェン(Mangsong Mangtsen)死去
新疆タリム盆地進出 |
| 734年 |
ギルギット地方を支配 |
| 741年 |
チベット軍四十万中国侵攻 |
| 754年 |
チベット・シャム同盟軍南紹侵攻 |
| 755年 |
第三十七代国王ティソン・デツェン Trisong Detsen (在位755〜797)仏教奨励
ボン教徒抵抗、中国大乗仏教とインド密教の対立激化
サムエ寺の論争(792〜794)以後、チベット仏教はインド密教一色となる |
| 763年 |
チベット軍、唐の都、長安(現・西安)占領。涼州、甘州、粛州、沙州攻略(764)
唐、チベットに朝貢 |
| 778年 |
チベット・シャム同盟軍、四州にて唐軍と戦闘(八年間) |
| 790年 |
北庭都護府奪取。シルクロード貿易の実権を握る |
| 783年 |
「建中の会盟」、唐とチベットの国境線が定められる |
| 821年 |
「長慶の会盟」、唐と長安で平和条約終結 |
| 822年 |
ラサでも会盟、唐蕃会盟碑を長安、国境のググ・メル、ラサの三ヶ所に建立 |
| 836年 |
第四十一代国王ダルマ、通称ラン・ダルマ(Lang Darma)即位
仏教弾圧。寺院破壊、僧侶は還俗。仏教徒はボン教に改宗を強制される。ボン教栄える |
| 842年 |
ラン・ダルマ王暗殺。チベットの王統断絶(古代王国の終焉)
群雄割拠の分裂時代到来、チベットの国力の衰退。唐、河西の失地を回復
|
| 1207年 |
西夏王国(チベット・タングート族)、モンゴルのチンギス・ハン軍の襲来によって崩壊
中央チベット代表団、モンゴル軍に貢物を贈る |
| 1240年 |
チンギス・ハン(1162〜1227)死去後、チベットは朝貢を中止。モンゴル軍、チベットの寺廟を焼き、町村を略奪
ゴダン・ハーン(チンギス・ハーンの孫)、チベットに遠征隊を派遣、チベットの指導的高僧サキャ・パンディタ・クンガ・ギェルツェン(1182〜1251)を幕舎に招く。「寺と壇家の関係」(チュ・ユン)の始まり |
| 1254年 |
フビライ、中央チベット十三州の支配権をバグパ Phagpa(チベット仏教4大宗派の1つ、サキャ派の座主)に授与 |
| 1260年 |
フビライ、モンゴル帝国第五代皇帝となる
バグパにチベット全土(中央、カム、アムド)の支配権と帝師の称号授与
サキャ派、チベット支配権確立。この後数百年にわたるチベット・モンゴルの宗教的連帯の基礎固まる
*カルマ派に転生者現われ、チベットにおける最初の転生者となる |
| 1295年 |
フビライ死去
第一期教団政権サキャ派の衰退始まる |
| 1372年 |
ゲルクパ派Ge-lug-pa(=ゲルク派)開祖ツォンカバ・ロザン・ダクパ、ゲルクパ黄帽派創始
*ゲルクパ派はガンデン寺を総本山とし、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマもこの宗派に所属する |
| 1391年 |
第一世ダライ・ラマ、ゲドゥン・トゥパ(1391〜1474) |
| 1565年 |
デパ・ツァンパ系教団政権(カルマパ派)樹立
*カルマパ派=カルマ派 |
| 1620年 |
ラサ郊外で宿泊中のモンゴル軍(ゲルクパ派)、駐屯中のツァンパ軍(カルマパ派)を襲撃 |
| 1635年 |
ツァンパ政権(紅帽カルマパ派)、東チベットの黒帽派ボン教勢力と結び、黄帽ゲルクパ派の根絶を計る
ツァンパ政権は青海のチョクトゥ・モンゴル部族に、ゲルクパ派はジュンガル(現新疆東部)のホショト・モンゴル部族グーシ・ハーン(トゥルバイフ)に援助を乞う |
| 1639年 |
満州の太宗ホンタイジ(清朝第2代皇帝)の招待により、ダライ・ラマ5世は都ムクデン(現・瀋陽)に代理を派遣。清朝皇帝との間にチュ・ユン(寺と壇家の関係)関係が開かれる
*後金国(清朝の前身)の段階から満洲王朝はチベット仏教を保護していた |
| 1642年 |
グシ・ハン、ツァンパ政権、カルマパ派を討ち、全チベットの統治権を第五世ダライ・ラマに献上(ダライ・ラマ法王国、祭政一致政権の誕生)
同年五月ラサを首都とし、政府の名称をガンテン・ポタン(歓喜宮殿)とする |
| 1644年 |
太宗ホンタイジ北京に遷都、中国支配開始
*清は太祖ヌルハチ(初代皇帝)が1616年に明から独立して建国した後金国が前身
第2代皇帝ホンタイジ、1636年満州において大清建国 |
| 1645年 |
ポタラ宮殿建設着工 |
| 1654年 |
ブータンと国境紛争 |
| 1660年 |
ネパールと最初の国境紛争 |
| 1695年 |
ポタラ宮殿完成 |
| 1705年 |
モンゴル、ホショット部青海のラザン・カン、チベット統治(1705〜1717) |
| 1720年 |
康熙帝、クムプム寺第七世ダライ・ラマに、満、蒙、蔵文で書かれた「第六世ダライ・ラマの印」の金印を贈る |
| 1728年 |
清、チベット政府の要請(チュ・ユンの関係)により派兵
清朝皇帝の代表としてアムバン駐蔵大臣二名のラサ常駐始める(清朝崩壊〜1911年まで)
*清は18世紀中チベットに3度派兵(チュ・ユンの関係に訴えた行動)
1728年・1751年(内戦後の秩序回復のため)、1792年(ネパール・ゴルカ軍の侵入を阻止するため) |
| 1774年 |
パンチェン・ラマ(六世)の調停で、英国の東インド会社とブータンの間に有効通商協定締結、ラサ政府通商を拒否 |
| 1781年 |
第八世ダライ・ラマ政権、夏の離宮ノルブリンカを建築(1783年完成) |
| 1788年 |
ネパール・グルカ軍、チベット攻撃 |
| 1789年 |
チベット敗戦。チベット・ネパール年貢協定終結 |
| 1791年 |
ネパール軍、シガツェ市及びタシルンボ寺院を掠奪 |
| 1792年 |
ネパール・グルカ軍の侵入阻止のため清・乾隆帝大軍派遣、清・チベット連合軍勝利。カトマンズ占領。チベット・ネパールの平和条約調停
清は駐蔵大臣の権限強化 |
| 1808年 |
第九世ダライ・ラマ、ルントク・ギャツォ即位(1805〜1815)
チベット政府、外国人のチベット入国阻止を厳命、これ以降チベットの孤立化強まる |
| 1841年〜1842年 |
チベット、カシミールに侵入 |
| 1853年 |
チベット・ラダック通商協定締結 |
| 1855年〜1856年 |
ネパールが侵入 |
| 1863年 |
東チベット・ニャロン族首領ゴムボ・ナムギェルの乱 |
| 1871年 |
国民議会設立 |
| 1886年 |
7月、英国と清国は北京で「ビルマおよびチベットに関する条約」を締結
英国は清国の属領であったビルマの事実上の主権を獲得、代わりにチベットに対する使節派遣、通商強要の権利を放棄 |
| 1888年 |
シッキム国境でチベット軍、英軍と数回交戦、敗れる |
| 1890年 |
英国インド総督と清国駐蔵大臣はカルカッタでシッキム条約締結
チベット・シッキム国境の境界線決定。シッキムを英国保護領とするなど規定
*1890年、1893年の2度にわたり、チベットに関する条約がチベットの知らない間に英清間で取り交わされる
チベット政府はこれを中国の越権行為として拒否、1903年には英国軍の侵攻を招くことになる
清は以後チベットに対する援軍派遣を停止、チベットが独自に行った判断については、清が責任を負う筋合いはないとした |
| 1900年 |
9月、ダライ・ラマ特使アワン・ロサン・ドルジ、ペテルスブルクにてロシア皇帝ニコライ二世と第一回会見 |
| 1901年 |
ロサン・ドルジ、再度ダライ・ラマの親書を携えニコライ二世と会見
|
| 1903年 |
英国遠征軍インドがチベットに侵入 |
| 1904年 |
7月30日、第十三世ダライ・ラマ、ラサ脱出
8月3日、英国軍、ラサ到着
9月7日、英国・チベット・ラサ条約締結。立会人駐蔵大臣、ブータン代表、ネパール代表
チベット側は貿易市場をニヶ所開くこと、関税全廃、
賠償金五十万ポンドの支払い、英国の許可なしで外国人に内政干渉させないなど
9月23日、英国軍撤退開始
10月、パンチェン・ラマ、カルカッタ訪問
ダライ・ラマ、外蒙古のウルガ(現ウランバートル)到着 |
| 1905年 |
ダライ・ラマ日露戦争におけるロシアの敗北を知りペテルスブルク行きを中止 |
| 1906年 |
チベットに関する条約、英・清のみで北京にて締結、ラサ条約(1904)を清朝政府承認 |
| 1907年 |
ペルシャ・アフガニスタン・チベットに関する英露条約をペテルスブルクで締結
「チベットに関する協定」はチベットの領土保全尊重、内政不干渉、
チベットに対する清国の宗主権の承認などを規定 |
| 1908年 |
ダライ・ラマ、インド・チベット間の通商に関する英清協定カルカッタで締結 |
| 1909年 |
清朝、1908年通商協定に定める市場警備の名目でチベットに大軍を派遣
ダライ・ラマ、駐蔵大臣に清軍の撤退を要求
*清はそれまでのダライ・ラマ、チベット政府の要請による派兵から一転、
イギリスの影響力を排除すために武力によりチベットの主権を確立することに政策を転換
12月、ダライ・ラマ、ラサに帰着 |
| 1910年 |
清軍、ラサ到着。清軍による発砲、破壊行為過激のため、ダライ・ラマはラサを脱出
*清がダライ・ラマの廃位を図ったため、ダライ・ラマはチュ・ユン関係の終結を宣言
保護者である皇帝が導師ダライ・ラマを攻めたことで、両者の関係は悪化 |
| 1911年 |
辛亥革命、チベットにおける満州人の支配崩壊
全チベットで清国官吏、兵士を掃討 |
| 1912年 |
清朝滅亡
侵略に対する抵抗運動により、チベットは占領軍を降伏させる
同年夏、チベット・清はネパールの調停によって「3ヵ条協約」を締結、停戦と清軍の完全撤退を確認 |
| 1913年 |
ダライ・ラマ、ラサに帰着
チベット独立宣言発布
チベット・モンゴル条約(相互援助)締結
10月、インドのシムラでチベットの主権、領土その他について英国、中国、チベット三者会談 |
| 1914年 |
4月27日、シムラ条約署名(この条約の成立で1893、1908年英清通商条約撤廃
新通商条約及びチベット・インド間の境界線を定めるマクマホン協定調印
調印終了後、中華民国政府は中国代表の調印行為を否認し正式調印を拒否
第一次世界大戦(1914〜1918) |
| 1917年 |
中国、東チベットを攻略 |
| 1918年 |
中国駐在副領事エリク・ティチマンの調停でチベット・中国休戦協定成立 |
| 1923年 |
パンチェン・ラマ、チョキィ・ニマ、ダライ・ラマとの対立関係悪化し北京に逃げる |
| 1929年 |
蒋介石、第一回書簡をダライ・ラマに送る
*チベットが中国の一部となれば、全面的援助を与えると申し入れる。十三世ダライ・ラマこれを拒否 |
| 1930年 |
第二回書簡、チベット政府反応示さず |
| 1931年 |
四川省劉文輝軍と交戦(1932年休戦) |
| 1932年 |
青海省馬歩芳軍と交戦 |
| 1933年 |
青海・チベット境界線協定調印
12月、ダライ・ラマ十三世死去 |
| 1934年 |
1934重賛成の葬儀に際し、中国政府代表団を派遣
*チベット政府に対し
・チベットは中国の一部となること
・チベットの国防には中国中央政府軍があたる
・中国弁務官をラサに駐在させることを提案
チベット政府側は
・1914年のシムラ協定を中国政府が承認しること
・占拠したチベット領を返還すること
・パンチェン・ラマが中国側の護衛軍なしで帰るなら貴国を許すと返答
階段継続のため中国側連絡員二名残留。これが1912年以後チベットに駐在した最初の漢人役人である。
東チベット・マルカムの指導者バンダ・トブギェルの乱 |
| 1939年 |
第十四世ダライ・ラマ、テンジン・ギャツォ即位
即位式には英国、ネパール、ブータン、シッキム代表及び中国代表も列席
第二次世界大戦(1939〜1945) |
| 1942年 |
日本軍、重慶への武器供給路であったビルマ・ルートを遮断
英国・中国政府、インド→南チベットのザユル→重慶の新ルート建設をチベット政府に迫る
チベット政府中立を貫くためにこれを拒否
チベット政府、ラサ駐在中国連絡官に国外退去命令 |
| 1943年 |
後任の駐蔵連絡官として中国政府代表到着 |
| 1945年 |
インド・デラ・ドゥンの英国捕虜収容所を脱走したハーラーとアフシュナイター(両名とも登山家)はチベットに逃げ込み保護される
英国と中国政府の引渡し要求をチベット政府拒否。ハーラー著「チベットの七年Seven Years Tibet」参照 |
| 1946年 |
チベット政府、連合諸国に戦勝祝賀使節団を派遣 |
| 1947年 |
インド独立。デリーで開かれたアジア諸国会議にチベット代表出席
インド独立に伴い、チベット政府は通商代表弾をインド・英国・米国・中国に派遣
ラサにある英領インドの外交部がそのままインドに引き継がれる
チベット・イギリス間の条約も継承 |
| 1949年 |
中国人民解放軍、チベット東部のチャムド占領
チベット政府はラサの中国代表部が、もともと両国間の紛争解決のため暫定的に察知されたもので、正式の外交代表部ではないことを考慮し、閉鎖、引き上げを命じる
8月10日、・中国国民党政府、パンチェン・ラマ6世の転生者を認定.、共産党軍、中国全本土を掌握
11月2日、チベット外務省は毛沢東に書簡をしたため、あらゆる国境問題について話し合う旨を提案
書簡の写しは、インド、イギリス、米国にも送られる |