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東トルキスタンの歴史文字とその時代
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東トルキスタンの歴史文字は、作られた時代、起源、終わった時代、そのプロセスでその文字に依って作られた文字、その発展などは考古証拠に依って次のように整理することが出来ます。 |
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○東トルキスタン文字系統図

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系統図に表示された歴史文字は、紀元前から1949年まで2000年以上の間に東トルキスタンで伝えられていた古代著作文字で、以下の22種の歴史言語が記載された。
(1) 古代漢語 (図の@,A)
(2) 古代Tubut (チベット)語(図のO)
(3) 古代Ariyan語 (図のD,R,S)
(4) 古代Pehliwi語 (図のG,K,L)
(5) 古代サカ(Sak)語 (図の(21))
(6) 古代Tohri語 (図の(22),(23))
(7) 近代タジク語 (図の(32))
(8) 古代アラビア語 (図のH)
(9) ユダヤ語 (図のM)
(10) 古代トルコ語 (図のA,E,L,(24),I)
(11) 古代ウイグル語 (図のN,A,I,E,L,(24))
(12) チャガタイ語 (図のJ)
(13) 西夏語 (図のB)
(14) 契丹語 (図のC,F)
(15) モンゴル語 (図のO,(24))
(16) マンジュ (満州族)語(図のP)
(17) シボ語 (図のQ)
(18) 近代ウイグル語 (図の(27))
(19) 近代カザフ語 (図の(28))
(20) 近代キルギス語 (図の(29))
(21) 近代ウズベク語 (図の(30))
(22) 近代タタール語 (図の(31))
上述の(1)、(2)は漢族−チベット語系に属する。
(3)、(4)、(5)、(6)、(7)の5種の言語はインド−ヨーロッパ語系(インド−イラン語も含む)に属する。
(8)、(9)はHam−Sam語系に属する。
その他の(10)、(11)、(12)、(13)、(14)、(15)、(16)、(17)、(18)、(19)、(20)、(21)、(22)の13種の言語はアルタイ語系に属する。この中のモンゴル語、満族語、シボ族語以外の10種の言語はアルタイ語系のトルコ語族に属する。
この10種のトルコ語は12種の文字(図のA、E、L、(24)、I、N、 J、(27)、(28)、(29)、(30)、(31))で記載されていた。この12種の文字の中でウイグル人が使っていた文字は8種(図のA、E、I、J、L、N、(24)、(27))です。
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東トルキスタンには紀元前使っていた文字は3種類ある: 漢字、Karushti文字,Brahmi文字。この内、漢字は漢の使節と商人が持ってきたのである。後者の2種はタリム盆地の住民が使っていた文字で、タリム盆地の文字である。
紀元5−6世紀に8種の文字(図のA、K、N、S、(21)、(22)、(23)、(24))が作られた。
この内の華夏文字システムに属する漢字に依って古代トルコ−ウイグル語を書くクージュ(高昌)文字が;Arami文字システムに属するソグド文字に依って古代トルコ−ウイグル語を書く古代ウイグル文字が;Brahmi文字システムに属するTohri文字(B)に依ってトルコ−ウイグル語を書くBrahmi式のトルコ文字が作られた。それから10世紀まで東トルキスタンに又5種の文字(図のG、E、H、L、(25))が伝わってきた。この5世紀の間に5種の文字が「競馬」に参加していた。
この時代は東トルキスタンで仏教が盛んになった時代でした。この「競馬」の結果をMahmut
Kashgariの「トルコ語大辞典」に拠って理解すれば、当時の東トルキスタンにインド−ヨーロッパ語、インド−イラン語を話す民もいた。彼らはもうトルコ語を話せるようになっていたのである。
彼らと一緒に生活しているトルコ系住民の言葉も彼らの言葉と混ざっていた状況が形成していた。Mahmut
Kashgariはこの状態を「壊れたトルコ語」と呼んでいた。つまり、仏教時代にトルコ語を話す住民は同時代の他の住民の言葉から適当な元素を(単語)受け入れた。彼らもトルコ語を話す住民と同民族になっていた。(トルコ語大辞典,ウイグル語版、39ページ)。
10世紀に東トルキスタンにイスラム教が伝わってきてからArami文字システムに属するアラビア文字からトルコ−ウイグル語を書く「カラハン文字」が作られた。それで、トルコ−ウイグル語を話す住民は、昔からの仏教を止めてイスラムに改宗するように、以前の文字を止め始めた。それから東トルキスタンで紀元前から10世紀まで存在していた他の10数種類の文字は自分の哲学学説に服務する「バザル」が無くなった為、だんだん無くなる方に向かった。
14世紀に東トルキスタンで大きな文字改革と発展があった。つまりイスラムの哲学と教義を書くカラハン文字に依って「チャガタイ文字」が作られた。この文字で書かれた著作の内容はカラハン文字で書かれた著作の内容より豊富で、民向性で、影響は大きかったのです。
現地のインテリはチャガタイ文字で母語だけではなく、アラビア語、ペルシャ語の著作を作って、外国にも影響を見せ始めた。この時代とその後東トルキスタンに伝わってきた他の文字(図のO、(26)、
M、P、Q)は東トルキスタンで現地化のチャンスが出来なかった。政治需要で続いている文字(例えば、図の@)もそうです。それは東トルキスタンに後で来た他の民が母語を書く文字に限りました。
20世紀になると、以前のチャガタイ文字に依って5種の文字(図の(27)、(28)、(29)、(30)、(31))が作られた。それはトルコ語系の色々な方言の表示に合わせられた。
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古代文字を研究しなければなりません。その文字で祖先(の敵或いは友だち)が書いておいたものがあります。それで昔の歴史、文化を研究して、これからも文化を発展させる為役に立ちます。
東トルキスタンの古代文字を研究するのに、例えば、古代漢字を勉強するのに、現代中国語を利用して;ソグド、マニ、シリア及び古代ウイグル文字を勉強するのに、現代モンゴル文字の形を利用して;Brahmi文字システムの古代文字を勉強するのに、現代インド文字とチベット文字を利用して;Karushti、Tohri、Sak(サカ)文字で書かれた著作の言葉を研究するのに、Sanskrit語の辞典を利用して、比較言語学の研究を行うことが出来ます。
この文章の主な内容は新疆日報(ウイグル語版)1983年3月22日、7月14日に発表された。
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東トルキスタンで使われた26種の文字
(紀元前3世紀〜20世紀半ば)
東トルキスタンで紀元前3世紀から1949年まで使ってきた文字を紹介致します。1949年の後で使った文字を他の文章で紹介します。
今、ウイグル自治区博物館で保存されいる文字と東トルキスタンで発見されて他の博物館、図書館及び外国に持ち帰られて保存している文字を入れて26種類あります。これらの一部は「もう死んだ文字」、一部は段々改革されてきた「半分死んだ文字」です。 「もう死んだ文字」を読んで分かる学者は世界で極めて少ない。中国ではもっと少ない。一部の文字は読める学者が未だいません。母語が上手なウイグル人はちょっと努力すれば「半分死んだ文字」を読んで分かる。
上述の26種類の文字は3つの文字系統(システム)に分けることが出来る。 これは「Arami文字システム」、「Brahmi文字システム」及び「華夏文字システム」です。
華夏文字システム
○1.漢文
○2.クージュ(高昌)文
○3.西夏文
○4.契丹大字
Arami文字システム
○5.カルシティ文字
○6.アラビア文字
○7.ペルシャ文字
○8.カラハン文字
○9.チャガタイ文字
○10.シリア文字
○11.マニ文字
○12.ソグド文字
○13.Urhun文字
○14.契丹文字(契丹小字)
○15.古代ウイグル文字
○16.モンゴル文字
○17.マンジュ(満州)文字
○18.シボ族文字
Brahmi文字システム
○19.Brahmi文字
○20.Sansikri文字
○21.Tohri文字A
○22.Tohri文字B
○23.サカ文字
○24.Brahmi式のトルコ文字
○25.Tubut文字
○26.Basba文字
歴史文字とその時代(文字システム系統図)
これらの文字システムに属している各種の文字を用いて、Ham−sam語系に属する言語、インド−ヨーロッパ語系(インド−イラン語も含む)に属する言語、漢−チベット語系に属する言語で、古代の宗教、歴史、地理、医学、文学、占いこと(運命判断)、農業、牧畜業、園芸(果樹園芸術)、法律内容などが記載されていた。つまり、その内容は世界の仏教、キリスト教、ゾロアスター教(拝火教)、マニ教、及びイスラム教を含んでいます。それ以外、山、日(太陽)、月、川などの自然存在を神格化して信仰した原始宗教まで関わる。
東トルキスタンから出土(発見)されたこの26種類の文字で記載されたものから現代の色んな専門の学者が自分に必要な歴史資料を得ることが出来ます。
華夏文字システム
「華夏」とは民族学的な概念です。それは中国語で話す民の昔の祖先の共通な名前です。この名前が各歴史時代に当時の王朝名でも呼ばれた。例えば、夏朝(紀元前14−紀元前11世紀)の時代に「夏人」と、商朝(紀元前9世紀−前16世紀)の時代に「商人」或は「殷人」と、周朝(紀元前11−前8世紀)の時代に「周人」と、春秋戦国(紀元前8−前5世紀)時代には当時バラバラになった王朝の名前で、例えば、「秦人」、「魏人」、「韓人」、「趙人」、「楚人」、「燕人」、と、秦朝(紀元前221−前206年)時代に「秦人」と、漢朝(紀元前206年−紀元220年)時代には「漢人」と、隋、唐(518年−907年)時代には「隋人」或は「唐人」と、宋朝(960年−1127年)時代には「宋人」と、元朝時代には「南人」と、清朝の時代には満州人と同じく「清人」と呼んでいた。英語の「Chinese]も「清人」から出来たのです。
古代突厥人は(6−9世紀に)「華夏」を「Tabghach、タブガチ」と呼んでいた。紀元12、13世紀には中央アジアにある「契丹」の名前と一緒に「Kitai、Kitay」と呼ばれた。(「Kitay」と言うのは他の民族が「契丹」族を呼んだ時の発音でした。後でロシア人は「契丹」を「Kitay、キタイ」と呼んだから他の民族にもそのまま伝えられたものです。)
華夏民族の一番最初の文字は商朝時代に亀の甲羅、牛、羊の骨に彫って作っていた文字ですから「甲骨文」と呼ばれている。その後の華夏文字は金属容器に書いたものですから「金文」と呼ばれた。秦朝が中国を統一してから、文字も統一していた。その後の漢朝時代にその文字が普及されたので「漢文」(漢朝文字、漢族文字)と呼ばれるようになって今まで使われています。
東トルキスタンで華夏文字システムに属する文字システムが4つ出土しました。それは:−
1.漢文
この文字は秦の時代に統一されて、漢の時代に普及された文字で、その後の各王朝は改革はしたが、それは画数、上下、左右への交換に過ぎなかった。
この文字で中国の2000年間の政治、経済、文化情況が詳しく記載されている。書かれた歴史、宗教、文学、及び色々な社会、法律についてのものが非常に多い。その時代もハッキリしている。
それには世界史、特に中央アジア史に関する多くの記録及び歴史上の事件の手がかりがある。それは中国の歴史だけではなく、世界史、中央アジア史を研するのに重要な意義を持っている。
東トルキスタンの多くの地方からこの文字で書かれた資料が発見されました。
2.クージュ(高昌)文
「北史」、「周書」などの歴史文献のトルファンに関する部分には、「彼らの文字は華夏文に似ている、胡(Hor、ウイグルのこと)語で読む」とハッキリ載っています。これは日本人が「漢文」で書いて日本語で読むことと同じです。
11世紀のウイグル言語学者Mahmut Kashgari も「トルコ語大辞典」に、「クージュ(トルファン)のウイグル人は中国の文字に似ているもう一種の文字を使っている。正式な文書、手紙などをその文字で書く。その文字はイスラム教徒になっていないウイグル人と漢人しか読めません。」と明確に述べていた。これは考古学で証明された。トルファン盆地から3世紀から10世紀までの文献が多く見つかった(出土した)。1980年代までこれらの出土品は「漢字」である、「中国語」である、と中国当局がプロパガンダしてきたが、それは真っ赤なうそである。
3.西夏文
この文字は「Tanggut、Tangghut」文字とも言います。紀元1038年から1227年に、今の寧夏、陝西省の北、甘粛省の西北、青海の北、内モンゴルの一部を含んだ王朝があった。北宋人はその王朝を「西夏」と呼んでいた。この国の民は古代の羌、漢、Tubut(チベット)、ウイグルなどだったのです。当時には西夏文字を使っていた。私たちが分かる西夏文字は6000個ある。この文字の形は漢文に似ていますが、画数は多くて、複雑です。今、文字学者、言語学者はこの文字を見て意味が分かって翻訳は出来ますが、当時の読み方が分かりません。
東トルキスタンで西夏文字で書かれた仏教、文学、医学、法律に関する文献が発見された。北東トルキスタンから西夏文字が彫られたコインが出土しました。
4.契丹大字
916年から1125年にバルティック(Baltik)海の辺りから山西の北、内モンゴルの一部まで含んでいる地域で「遼」朝が出来ていた。この王朝は契丹大字を使っていた。この王朝の国民はKitan(Kidan、契丹)、ウイグル、モンゴル、Jurjit人などから出来ていた。
契丹文字は920年、漢文を利用して作られた文字で、その画数は漢文より複雑、西夏文字より簡単に見える。
1124年契丹人の一部が西に引っ越ししてきて、イリ河の西とSuyap河の南の地区で「西遼」(Kara
Hitaiとも言う)を創っていた。この王朝は1211年倒れるまでこの地域で契丹大字が用いられた。
東トルキスタンの北側からこの文字が載っている印鑑(スタンプ)が出土した。
Arami文字システム
紀元前11世紀にMissupotamiye(メソポタミア)平原(Ihufaratis(ユーフラテス)、Tigiris(ティグリス)川の間の地域を指す、古代突厥民はこれをアナトリ(Anatuli、Anatoli)平原と読んでいた)にあった有名な城郭都市Damaskoに「Aram人」という古代部族が生活していた。考古学者はこの平原から紀元前9−7世紀のArami文字が載っている石碑を見つけた。
こういう文字が載っている石碑がアフガニスタン、パキスタンからも見つかった。つまり、その時代にこの国際貿易ロードでアラミ文字が使われていた。
今ウイグル自治区博物館に保存されているものと、東トルキスタンで出土して外地で保存されている手書き資料のなかでアラミ文字システムに属している文字が14種類ある。それは:−
5.Karushti(カルシティ)文字
この文字がアラミ文字の最も古くから用いられた自由手書き形を基礎として改革されたものです。紀元前5世紀頃にインド領域でこの文字が使われていた。
言語学者の中で「この文字がAriyan(日本語でアーリア)文化の影響で形成した、ほとんど古代インドの西北部で使われた」と考える人が多数を占める。一部の人は「Ariyan人がイランの方からインドに来ていた、ですから、それはインド・イラン文字と呼ぶべきだ」と考える。又一部の人は「Ariyan人がタリム盆地からインドに行った」と考えている。これについて未だ最後の結論が出されていない。
考古学者がパキスタンで紀元前251年の「Asokahan命令」(石碑)を発見した。
東トルキスタンホタン地区Lop(ロップ)県の「Ak Sepil(古城)遺跡」(アクは白い、セピルは城壁のことです)の城壁レンガに載っている文字もKarushti文字でした。ニヤ県の北の方、キロレン(楼蘭、今はチャルキリック県の範囲内)遺跡及びホタン地区から紀元3、4世紀までのTarisha(木片、木板)、紙に書いてあるコイン、社会、行政文書が多く発見された。有名なSansikrit学者Zhi
Shanlinさんはこの地区から発見されたKarushti文文書の言葉を「ニヤ民語」と呼んでいた。これらの文書は東トルキスタンの歴史を研究するのに極めて高い価値を持っている。この文字の研究は中国で未だ始まっていません。
紀元2、3世紀頃に仏教の需要でSansikrit文が広く普及された時に、Karushti文が軽視されて「Karushti、カルシティ」(意味はロバの唇)と呼ばれて、だんだんと廃棄された。要するに当時この文字が宗教内容のものを書くには使われなかった。
6.アラビア文字
紀元前2世紀にアラビスタンのNabata(ナバタ)部族がアラミ文字を使っていた。紀元106年Nabataハン国が倒れてから、この地域でアラミ文字を利用して新しいSinay文字を作っていた。アラビア文字はこの新文字を利用して5世紀に改革された文字である。
考古学者がMissupotamiye平原で紀元512年に属するアラビア文字、シリア文字及びギリシア文字が載っている石碑を発見した。
紀元7世紀からこの文字でKur’an「コーラン」が書き始められた。その後にはこの文字が固定の形式を持ち、世界の他の地域に広く伝えられ始めた。この文字は広がることで世界で二番目の文字です。
10世紀に東トルキスタンにイスラム教が伝えられてからアラビア文字も「コーラン」及び他の宗教著作と一緒に東トルキスタンに入ってきた。東トルキスタンのトルコ語で話す民はそれを勉強し始めた。
今はアラビア語で書かれた著作が東トルキスタンには多く保存されている。
7.ペルシャ文字
イラン平原で生活していたペルシャ人はAkamend朝(紀元前558年−330年)時代にMisimari(ミスィマリ)文字(釘形文字)用いていた。其の後のArsak朝(紀元前250年−紀元226年)時代にはPehliwi文字を使うようになった。紀元226年から642年のSasani朝(日本語でササーン朝)時代にはAwista文字を使っていた。この王朝が倒されてイスラム教が盛んになってから「コーラン」を通してアラビア文字がここに伝えてきた。そしてアラビア文字を利用してペルシャ文字が作られた。(上述の文字は全てArami文字の違った形式を利用して作った文字であったのです)
こういうペルシャ文字で書かれたものもイスラム教と一緒に東トルキスタンに伝えられてきた。
東トルキスタンで紀元7−8世紀のペルシャ文字が載っている金貨、コイン及び10世紀後紙に書かれた文学作品(文書?)、哀しみの歌、文書が発見した。
10世紀の後、東トルキスタンでペルシャ語を勉強した人が増えて、トルコ語で話す人でもペルシャ語で作品を書くようになっていた。今、その時代の文献が東トルキスタンで多く保存されている。
東パミルペルシャ語で話すタジク人の間にもペルシャ語の古代書籍があります。
8.カラハン文字
イスラム教が紀元7世紀にアラビスタンで形成して、8世紀からイラン平原へ、インド領域のパキスタンへ、ヨーロッパの東側のトルコへ、北アフリカへ及び中央アジアへ伝え始まった。東トルキスタンにはちょっと遅く、つまり10世紀に伝えられた。それは一番最初にカシュガルに影響を見せた。
その時代にはカシュガル地域にはカラハンの他の地域と同じようにソグド文字を基礎に作った「ウイグル文字」が使われていた。この文字が仏教の為に用いられた。イスラム教が伝わってきてからイスラムの為に用いられた。例えば、「Kut
Atghu Bilik」(幸せを与える智恵)にこの文字で書いた手書き書があります。しかし、その時代にイスラム教宣伝の需要の為、アラビア文字、ペルシャ文字を勉強する必要が出てきた。そしてアラビア、ペルシャ文字を利用してウイグル(トルコ諸語)語を書く「カラハン文字」が作られた。
最初に2種の文字は平等に使われていた。カラハン時代の2種文字が載っているコインがこの点を証明している。
その後、カラハン文字が優勢を占め、発展して、ウイグル語にアラビア語、ペルシャ語から多くの「外来語」が受け入れられた。
カラハン文字は14世紀まで続いていた。
カラハン文字で書かれた文書は東トルキスタンの至る所から、特に天山の南から多く発見され
た。
9.チャガタイ文字
東トルキスタンは1224年から1328年にモンゴル王子チャガタイハンの領域に入れられてからも、この領域でイスラム教の発展が続いていた。この王朝を創ったモンゴル部族までイスラムに改宗し始めた。
その時代にはトルコ諸語に受け入れられたアラビア語、ペルシャ語からの「外来語」が多すぎて、この外来語は国民に歓迎されていなかった。(普及は難しかった。)この問題を解決する為にアラビア語、ペルシャ語の正書法をあまり変えないことを考えながら、カラハン文字を改革して、トルコ諸語を比較的に正しく表示出来る文字を作らなければならなかった。そして「チャガタイ文字」が作られた。この文字は民にとって便利な文字でした。
このトルコ諸語を書くのに使う文字がチャガタイハンの時代に用いられて、当時チャガタイハンの行政の為にサービスしていたことから「チャガタイ文字」と呼ばれている。
トルコ諸語言語学者、文学者、思想家Elishir Nawayi(エリシル.ナワイ、今まで出版された日本語の本ではナボイとなっている)(1441年ー1501年)の著作はこの文字で書かれたのです。
東トルキスタンでこの文字で作られた著作は非常に多い。内容も非常に豊かです。今言語学者はこの文字を「ウイグル古典文学文字」とも呼んでいる。この文字は20世紀の20年代まで続いて来た。
10.シリア文字
Missupotamiyeの西北部にあるIdissa(イディッサ、今はUrfaと言う)地区はシリア語で話す人々の中でキリスト教が一番最初に発展した地区でした。此れはArami文化とギリシア文化が融合された特別なキリスト文化でした。
キリスト教はこの地区を通してイラン及び他の地域へ伝えられた。
この地区から紀元73年のシリア文字で作られた石碑が発見した。 この文字はアラミ文字の自由手書き形を利用して作った文字で、紀元4ー6世紀頃に盛んになっていた(発展した)。
7世紀にこの地区でイスラム教が発展し始めてから、アラビア文字でシリア語を書く一種の文字(この文字はGarshuniガルシュニ文字と言う)が作られてから、シリア文字が捨てられた(休み)。
紀元431年頃にシリアの布教師が二つの宗派に分かれていた。当時にその中のNesturi派が東に伝わって(引越し)してイランの国教になっていた。つまり、母国で廃棄されるところだったシリア文字が他の国に引越しした。面白いのは国際貿易ロードを通って中国まで伝わってきた。
今、西安市に紀元781年の「マーチンNesturi教が中国に伝来」という石碑が保存されている。
元朝の時代にイタリアからバグダト経由で中国のタイドゥ(北京)へ旅行に来たMarkopoloの旅行記に(今の)東トルキスタン「地域に多くのNesturi教寺院があった。」と述べていた。実際にも、東トルキスタンから、特に東トルキスタンのイリ地区のAlmalik故城からシリア文字が描かれている文物が発見した。
資料によると敦煌と東トルキスタンからシリア文字で書かれたINJIL(聖書)の片が発見された。
東トルキスタンではチャガタイハン時代の終わり頃にシリア文字が完全になくなった。
11.マニ文字
紀元247年イランでマニ教が生まれた当時、其の前シリアのPalmira市で用いられた文字形式に依って作られたマニ文字が使い始まった。それからマニ教も中央アジアに入ってきた。
この宗教は中央アジアで大分長い間「定住(地方)化生活」を体験してから、紀元762年ウイグル王朝の国教になった。それからマニ文字はイランのPehliwi語を書くことではなく、ウイグル語をも書く文字になった。
東トルキスタンのトルファンなどの地区からマニ文字で書かれた手書きものが発見した。注目すべきことは、トルファンでマニ教と仏教が結合した一種の形が形成していた。トルファンのベゼクリック千仏洞の壁画はこの点を証明している。
トルファンから又、マニ教徒が仏教に改宗した時の「後悔書」の手紙が発見された。この手紙等はもう研究されて公開発表された。
12.ソグド文字
フェルガナ盆地で生活していたソグディヤン(ソグド人)が紀元3世紀からイランで使われたAwista文字に依って改革された一種の文字を又改革して自分の言葉→東イラン方言を書いていた。言語学者はその文字を「ソグド文字」と言います。(ある本にはPehliwi文字とも言います)。
ソグド人はその時代にインド領域、ロップヌル湖地域(タリム盆地)、モンゴル草原まで商売に行っていました。彼らは行った所でもその文字を使っていた。
紀元5世紀頃にこの文字が国際貿易ロードで使う文字の一つになっていた(この文字に依ってウイグル文字も作られた)。
トルファンから紀元5−6世紀のソグド文で書いた仏典、社会、経済文書が発見された。トルファンの千仏洞の壁画にもソグド文の「致辞?」がある。ウルフン(Urhun)領域からもウイグルハーカン(王朝)時代に立てられたソグド文字が載っている石碑(ウイグル語でMenggu(永遠)Tash(石)と言う)が発見された。 この文字が東トルキスタンで7世紀まで続いた。
13.Urhun文字
今のシベリアの南、モンゴル草原の西北、東トルキスタンの東北などから紀元8−9世紀の石碑が出土した。 この文物は最初Urhun−Yensey流域から出土したことから言語学者はそれを「Urhun文字」と読んでいた。(ある学者はUrhun−Yensey文字とも呼んだ)。
「隋書」によると、トルコ語で話す民は紀元6世紀に文字を使っていた。この文字に似ている文字はトルファン盆地でも発見された(紙に書いたものも、千仏洞の壁画に描かれたものもある)。しかし、これらの文物の中でUrhun流域で出土した文字の以前のものは未だ整理、分類されていません。この関係の研究者は今までUrhun流域から出土した文字を、時代を「基準」としてそれを一括して「8世紀後の文字」と言っている。
ホタン地区Lop(ロップ)県のAk Sepil故城の城壁のレンガに残る紀元前3世紀のKarushti文字からこれらの文字の起源が感じられる(分かる)。
最初の研究ではこの文字は形式の面でTi’otun部族のRonik文字に似ているから、それをRonik文字、Ronik式のトルコ文字とも呼んでいた。実はこの文字はイランで用いられていたArami文字システムに属するAwista文字より古い形式、つまりKarushti文字と同じ源の文字である。
トルコ語で話す民族はこの文字を11世紀まで使っていた。Mahmut Kashgariの「トルコ語大辞典」にこの文字の形が述べられている。
この文字はウイグル人の間で、ソグド文字に依って作られたウイグル文字が普及されてからだんだん使わなくなっていましたが、契丹人の新しい文字(契丹小字)の手本(親)になっていた。
14.契丹文字(契丹小字)
紀元920年契丹ハン(王様)が文学者に命令を出して、前の契丹文字(契丹大字、→漢字)の他に新しい文字を作ってもらった。この文字は「契丹小字」と言います。
この文字はUrhun文字と、ソグド文字に依って作られたウイグル文字に依って作られた文字である。その特徴は、その中に画数が略された漢字も含んでいたことです。 この文字は紀元1191年ハンの命令によって廃止された。それまで契丹人の高位の中で続いていた。
この文字が載っている墓碑がある。東トルキスタンのカシュガル、ヤルカンドなどからこの文字が載っている文物が出土した。しかし出土したものが非常に少ない。 研究者がこの文字を重視している。何故なら、その読み方(発音)問題も未だ解決されていません。
15.古代ウイグル文字
この文字はソグド文字に依って作られた。Urhun(Urkunともいう)流域、甘粛省の西、トルファン盆地及びタリム盆地のウイグル人がこの文字を一般的に使っていた。
Urhun流域からこの文字で書かれた9世紀のウイグル文物が発見されてから、「ウイグル人は9世紀にソグド文字に依って作ったウイグル文字を用いていた。彼らは西(東トルキスタン)に移動して、この文字も持って来た。その前に東トルキスタンにはウイグル人が居なかった。この文字も無かった。」という間違った観点が非常に普及されて「不動な結論」になって、中学校から大学の教科書まで載せられた。
紀元5世紀頃にウイグル人がトルファン盆地でこの文字を用いたことが証明されてから、この観点を持っている人の「不動な結論」が倒された。 証明の前には上述の間違った「結論」のせいで、古代ウイグル語の手書き文書(文物)の内、9世以前に作られたものは解明されない状態が続いてきた。
Tohri(トホラ)文、Sansikrit文、サカ(Sak)文、漢文、Tubut(チベット)文からこの文字(ウイグル文)に翻訳された著作が多いです。この文字で書かれたマニ教著作(トルコ語)もある。その他にも政治、経済、法律に関する文書、文学著作、医学著作がある。(残っている)
仏教環境で用いられたこの文字は、カシュガルでイスラム教が普及されてからも一時イスラム教の為使われて、10世紀以降にイスラム環境で作られたカラハン文字に舞台を譲ってあげた。
しかし、その文字はトルファンで15世紀まで、甘粛省で17世紀まで用いられた。
16.モンゴル文字
モンゴル人は紀元1204年から古代ウイグル文字に依って作られたモンゴル文字を使い始めた。それは今まで続いている。 この文字には古代ウイグル文字のアルファベット形が残っているため、もう捨てられた(死んだ)ウイグル文字で書かれた著作を読んで研究することが可能になる。
このモンゴル文字で書かれた著作が東トルキスタンの多くの地区で見つかる。
17.マンジュ(満州)文字
清朝(1644年−1911年)が成立する前に、満州王Nurhach(ヌルハッチ)が大臣達に命令をしてモンゴル文字に依って新文字を作ってもらった。この文字が1632年から用いられた。1748年に一回改革されて、もっと完成された。それは今まで使われている。
東トルキスタンでマンジュ文字で書かれた著作が発見された。
18.シボ族文字
東トルキスタンのイリ流域に2万人ぐらいの人がシボ語で話す。彼らは1764年から清朝によって満州部隊に入れられて、今の瀋陽などの市からイリ流域に国境を守る為に派遣された1600人のシボ族兵士(彼らと一緒に来た家族は2000人以上)が定居して形成した民である。
シボ族の言葉はアルタイ語系のTongghus−マンジュ語族に属する。シボ文字は清朝時代にマンジュ文字に依って作られた。
東トルキスタンの北に18世紀以降のシボ文著作がある。
Brahmi文字システム
19世紀の30年代にインド地域から約3000年前のHeroglif文字(絵文字)が出土しました。この文字の謎は未だ解明されていない。
しかし紀元3−4世紀頃に使われたBrahmi文字の謎は解かれた。それはインド地域で紀元前7−6世紀頃から使い始めたのである。文字学者はこの文字の形を見てそれを「南Semit文字から作られたかも知れない」という観点(想像)を提出した。一部の学者はAriyan人がKarushti文字をインド地域に持ってきた、Brahmi文字は元来あったDarobitu部族の文字だった、と見なしている。Ariyan人にしろ、Darobitu人にしろ、インド地域の民はこの文字を自分たちの神様の名前で「Brahmi」と読んでいた。
この文字で殆ど仏教の各派の学説が書かれて、仏教の為に使われていた。
東トルキスタンでBrahmi文字システムに属する文字が8種出土しました。それは:
19.Brahmi文字
東トルキスタンホタン地区Lop(ロップ)県のAksepil故城の城壁に書かれた文字の中にBrahmi文字が数個ある。このBrahmi文字は紀元前3世紀にインド地域で使われたBrahmi文字にそっくり似ている。しかし、発見された文字は少なかったため、その言語を調べることは出来なかった。
しかし、この文字の存在は東トルキスタンで使われた別種のBrahmi文字システムに属している文字の直接の源を明かすために重要な意義を持っている。
20.Sansikrit文字
この文字は昔のAriyan人の文学文字である。「Sanskrit」とはAriyan語で「飾ってある」と言う意味を表します。
この文字で殆ど古代インドの西北のAriyan方言が書かれていた。紀元前4世紀に比較的に完璧なSanskrit文法が作られていた、言語学者はそれを「Babini文法」と言います。
考古学者はこの地区から紀元前32年のSanskrit石碑を発見した。
文字学者の研究によれば、この文字は紀元前2世紀から当地のPrakirit語(現地民語)を書く他の文字(例えばKarushti文字)の代わりに使い始まって、Samudra
Guptahan時代(紀元340−375年)に古代インドの唯一の文字になった。当時他の所に伝えられた仏教がちょうどこの文字を手段とした(その前には仏教は北にSanskrit文字で、南にはPali(パーリ)文字、つまりSanskrit文字とあまり変わらない、しかしその言語は現地民に合う一種の文字で伝えられた)。
この文字が長い間形を続けてきた。7世紀になってから一回改革されていた。この改革された文字の形は「Dewanagari文字」(意味は神の所の文字、天国文字)と呼ばれていた。現代インド文字はその文字に依って作られた。
東トルキスタンのカシュガル、マラルベシ、ホタン(和田)、クチャ、トルファンなどから、Sanskrit文字で白樺の皮、板、家畜の皮、紙に書かれた仏教著作が発見された。今一部の研究者はその著作の時代を3−8世紀だと考えているが、実はもっと昔の宗派に属する著作もある。
Sanskrit文物を研究するまで古代Ariyan人の輝いた文化は世界に知られなかった。インドはイギリスの植民地であった時に西洋の学者はこの文字を研究し始めた。当時イギリスの殖民主義者は「インド文化は西洋から来た」と講演していた、インドの現地インテリも知識が不足のため、イギリス人の「演奏」に合わせて「踊っていた」。
Sanskrit文字が研究されてから「西から来た」と言われていた文化が元々は古代インドのAriyan人の文化であり、インドから西洋に伝わって、西に影響を与えたことが明かされました。世界レベルの言語、例えば、英語、ドイツ語も自分の歴史起源をSanskrit語から見つけた。それから「インド−ヨーロッパ語系」という単語が生まれた。インドの民族も祖先の一つであったAriyan人の輝かしい文化で、自豪を感じるようになって(自ら誇りを感じるようになって)、自分たちを「古代文明的な民族」と呼んでいる民族と同じ位置に置かれるようになった。殖民主義者の軽視にも場所はなくなった。
Sanskrit文字は世界の古代言語を研究するのに、特に比較言語学において非常に重要な意義を持っている。なぜなら、古代、東トルキスタンに伝わってきた著作をウイグル人が参考にして、それから多くの外来語を受け入れた。今、Sanskrit語と古代ウイグル語を比べて研究すれば、発音、意味が似ている単語及び語根が同じ単語が見つかりました。
21.Tohri(トホラ)文字(A)
1903年−1905年にドイツ探検家のGronwidilさん、Lekokさんは東トルキスタンのクチャ、カラシェル(Kara Shahar)県境内から多くの古書籍を持ち帰った。Sanskrit学者はその書籍を読んでみて、Sanskrit語に似ている「Maytrsimt」ドラマのような単語を見つけたが、その他の内容は分からなかった。そしてこういう文字を整理した時に「知らない民族の文字A」と呼んでいた。
1907年有名な文字学者Muller先生がトルファンで出土した古代ウイグル語の「Maytrsimt」ドラマの注釈にあった「Tohri語から翻訳された」ということからその文字を「Tohri文字A」と名づけした。
40年代にフランス人の考古学者がアフガニスタンの北でTohri語で作られた石碑を発見した。学者がアフガニスタンで発見した文字を「Tohri文字」と、カラシェルで発見した文字を「カラシェル文字」と呼ぼうと言っていた。
Tohri文字Aの文字はBrahmi文字のGuptahan時代の形に依って作られたもので、言語学者はそれを斜線のBrahmi文字とも呼んでいます。この文字は5世紀から8世紀に使われた。この文字がトルファンとカラシェルで発見されている。
昔Tohri語を使う民は中国と西洋の文化交流で重要な役割を果たしていた。東漢時代にTohri語で話す人は仏教著作を中国に口伝えしていた。
この文字はトルコ諸語で話す民にもSanskritよりもっと直接影響を見せた。ウイグル語の仏教名称の多くはTohri語の発音で受け入れられた。この文字は東トルキスタンの歴史的な言葉の研究に重要な資料を提供している。
Tohri語はインド−ヨーロッパ語系に属する、それは同語系対比研究の参考価値が高い。この文字で書かれた「Maytrsimt」ドラマは今中国で研究されている。
22.Tohri文字(B)
この文字でTohri語のクチャ方言が書かれている。この文字は研究されるまでに「知らない民族の文字(B)」と呼ばれていた。なぜなら、それはTohri文字(A)とは違っていった。
この文字で書かれた著作には方言が多くあるだけではなく、この文字がトルファン、カラシェル以外に東トルキスタンの多くの地区から発見されている。この文字の伝達範囲は「Tohri文字(A)」より広い。Brahmi文でのトルコ文字はこの文字に依って作られた。比較言語学でこの文字の参考価値は「Tohri文字(A)」より高い。(A)では仏教著作しか書かれていない。(B)では仏教のほかに、文学作品、社会、経済文書も書かれている。
23.サカ(Sak)文字
この文字も古代インドのGuptaハン時代に用いられた文字に依って作られた。言語学者はこれを直線のBrahmi文字とも呼ぶ。又多くの研究者はそれを「ホタンサカ文字」(和田Sak文字)とも言う。
この文字はホタンだけではなく、マラルベシ、トルファンなどの地区でも発見された。伝達範囲も広い。
この文字で書かれた仏教著作、旅行記、王様達を誉めた歌、医学書、辞典、文学作品、行政、経済、法律文書がある。
外国の研究者はこの文字で書かれた文書の時代を6−10世紀だと見なしている。
最初の研究ではこの文字の言葉はイラン語と考えられたが、長く研究してからそれは東Ariyan語で話す現地民の言葉であることは認められた。
この文字で書かれた文書は東トルキスタンで生活していた大昔の部族―サカ部族の歴史文化及びその子孫を研究するのに重要な意義を持っていっる。
この文字の研究は中国で未だ始めていない。
24.Brahmi式のトルコ文字
クチャ、トルファンからこの文字で書かれた著作が発見された。最初この文字はBrahmi文字だと考えられたが、後の研究でその言葉はトルコ語だったので「Brahmi式のトルコ文字」と呼ばれた。
この文字は「Tohri文字(B)」に依って作られた。しかし、トルコ語を正しく表示する為に一部記号が加えられた。
有名な古代トルコ語(突厥語)学者A.Fon Gabayinさんはこの文字で書かれた著作の一部を研究して発表しました。
この文字で書かれた著作にはTohri語からトルコ語に受け入れられた単語が多く見つかる。この文字で書かれた文書は古代Tohri語で話す民とトルコ語で話す民の文化交流を研究するのに重要な意義を持っている。
紀元567年、西トルコと呼ばれたトルコ民が中央アジアを統治していたペイタル(Peytal、(漢字だと:唳?+口偏に達)白い匈奴とも言う)の政権の位置を占めていた。(その政権を倒した)。それは歴史で「西トルコ王朝」と言います。582年にこれらのトルコ部族の内部に分裂が起こって、西トルコ王朝は今の東トルキスタン及び旧ソ連の南の地域を含んでいた。659年唐に倒された。当時トルコ語で話す民の一部はクチャのTohri文字を勉強するチャンスが出来た。つまりこういうBrahmi式のトルコ文字を当時の西トルコ文字と思って良い。
25.Tubut(チベット)文字
考古学者は東トルキスタンのトルファン、ミラン(ミレン、米蘭)などで板及び紙に書かれたTubut文の手書きものを発見した。これらの文物は紀元9世紀に属する。
チベット自治区のチベット文学者はTubut文字が639年Brahmi文字のカシミールで使われた形に依って作られたと見なす。その他一部の学者はTubut文字にある記号が違っても、やっぱりホタンで出土したサカ文字にもっと似ている、この文字はサカ文字に依って作られたと見なすのが合理的だと言っている。実はMahmut
Kashgariがトルコ語大辞典で言ったように、彼らは「トルコの地へ後で来た」民である。彼らは東トルキスタンに来てからBrahmi文字と知り合うチャンスが出来たのです。
26.Basba文字
モンゴル人の中でラーマ教が発展してから1269年モンゴルハンがもう一種の文字を作ってもらって、1272年から使い始めた.Tubut(チベット)のラーマであるBasbaさんがTubut文字に依って作ったため、言語学者はこの文字を「Basba文字」と呼んできた。
この文字はモンゴルの間で1310年に廃止されて、古代ウイグル文字に依って作られたモンゴル文字を使うことが又決められた。
東トルキスタンの北でBasba文字のあるコインが発見された。
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ウイグル太郎
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